前回のエントリからだいぶ時間が経ちましたが、旅はまだ終わっていません。
ウディネからベネチアに戻って、1泊したのち、ポーランド航空でワルシャワ→クラクフと空路で移動します。平成→令和にまたがる13日間の旅行の締めは、結果的に「ホロコースト研究」となりました。
とりわけ、アウシュビッツ訪問は忘れられない経験になりました。ベネチアからクラクフへの道中について、覚え書きにして記録を残したいと思います。
ベネチア本島の北東部には、ユダヤ人が多く住む「ゲットー・ヌオーボ」というエリアがある。16世紀初頭に建築されたこの地区は「ゲットー」という名前で呼ばれた初めてのユダヤ人居住区。そういえば、シェイクスピアの「ベニスの商人」にもシャイロックというユダヤ人が登場するが、シャイロックが実在したなら、このエリアに住んでいたことになる。
ゲットー・ヌオーボには、ユダヤ人博物館がある。ここで、2つのシナゴーグを見学する小ツアーに参加することができる。
ベネチアからいったん空路でワルシャワに行き、そこから鉄道でクラクフに行こうとしたのだが、満席でチケットが取れなかった。2019年5月4日も、5月5日も満席。日本が10連休だったこの時期、ポーランドも大型連休だったのだ。
日本のゴールデンウィークは、ポーランドもゴールデンウィーク状態。これはどこにも情報なかったよ。5月1日がメーデーの祝日、2日も3日も祝日で、今年は5連休。だから鉄道が大混雑していて、料金の割高な空路でクラクフまで移動せざるを得なかった。
アウシュビッツのツアーも混んでいた。当初、VELTRAの日本語ガイドによる日帰りツアーを予約したのだが、後から満席だとキャンセルされ(VELTRAでこういうのは初体験)、ググって現地のツアー会社の英語ツアーに参加。料金がだいぶ安くなって結果オーライ。このツアーは「ランチを食べる時間がほとんどない」とのことで、ホテルの朝食の時に、ビュッフェの食材でサンドイッチを作って持参した。
朝9時半出発のツアーは、まず「ヴェリチカ岩塩坑」を訪れる。ここは、世界遺産の「オリジナル12」つまり1978年に世界遺産に登録された、最初の12件のうちの1つだと。
この岩塩坑は、300メートルの深さのところまで延々と階段を徒歩で降りるのだが、帰りはどうなってるのか、また階段を延々上るのかとても不安になる。
長い長い坑道をあちこち見学し、最後は巨大な礼拝堂で終了。礼拝堂には大きなシャンデリアがたくさん吊られていて、岩塩を削り出して作った「最後の晩餐」のレプリカもある。
帰りはさすがにエレベーターだった。恐らく、坑夫が使ったとおぼしきエレベーターで上る。エレベーターは檻状の扉で、天井のクリアランスがあまりなく、なかなか珍しい乗り物である。
岩塩坑から1時間ほど車で走って、アウシュビッツ・ビルケナウ収容所に到着。
ここには当時の建物がそのまま残っており、博物館になっている。
この有名なゲートには「ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)」と記されている。
建物はまったく朽ちていない。それもそのはず、アウシュビッツは1940年から45年までしか使われていないのだ。
鉄条網は厳重に張り巡らされており、監視塔もあちこちにある。
ここに来て初めて知ったことには、アウシュビッツは当初ユダヤ人が収容されていたわけではなく、ポーランド人の知識人たちが収容されていたんだと。カンボジアでポルポトがやったのと同じ理由だ。
やがて、ユダヤ人、ロマ(ジプシー)、同性愛者、ハンディキャップのある人たちが順次収容されてゆき、民族浄化の一大拠点となった。ヒトラーによる「ユダヤ人問題の最終的解決」を実行する施設となったのだ。
帰国してから、アウシュビッツの所長だったルドルフ・ヘスの著書「アウシュヴィッツ収容所」を読んだのだが、ガス室でユダヤ人殲滅のために使われたのは「チクロンB」というガスだ。毎日大量に輸送されてくるユダヤ人をどう殺害するかが悩みの種だったヘスとSSにとって、このチクロンBが強力なソリューションになったそうだ。
ルドルフ・ヘスは1947年4月、アウシュビッツの敷地内で絞首刑に処せられた。その場所も見学できる。
ユダヤ人たちの遺品、カバンとか靴とかもまとめて展示されている。施設内は写真撮影OKだが、「セルフィーは自粛して」と言われた。
これは「死の門」と呼ばれるゲート。鉄道の線路も、車両のいくつかもいまだに残っている。
アウシュビッツで殺害された犠牲者の数は、諸説あって実ははっきりしていない。このボードによれば、全部で、少なくとも130万人。そのうち110万人がユダヤ人、14〜15万人がポーランド人、2万1000人がロマ、1万5000人がロシア人捕虜、2万5000人が他のエスニックグループ。
ツアーに参加していた女性が、イスラエルの国旗の前で涙ぐんでいた。線路の上に車座に座って、故郷の歌を歌っている少女たちもいた。
「シンドラーのリスト」で有名なオスカー・シンドラーの工場は、クラクフの町にあり、現在は博物館として営業している。
「シンドラーのリスト」のロケはクラクフで行われたが、アウシュビッツ・ビルケナウが登場するのは映画の最終盤のほんの一部である。アウシュビッツ以外の収容所が舞台なのだが、シンドラーの工場がクラクフにあるので、映画では設定が変更されているのか。
以上で今回のホロコースト研究は終了。次はラーメン。
クラクフのオシャレエリア「カジミエシュ地区」は、ユダヤ人街である。ここの近くに「Akita Ramen Bar」があった。
TONKOTSUが売り切れだったので「KARMA MISO RAMEN」を食べた。30PLNなので850円ぐらい。意外に安い。けっこう美味しいよ。
Akita Ramen Barには、ビールもワインもなかった。ちょっと残念。
クラクフの旧市街は、馬車に乗って観光するのが定番だそう。こんなステキな馬車がたくさん運行してる。
それにしてもポーランドは物価が安い。エアチケットも安い。でも、また訪れるかは分からない。
クラクフは、ポーランドの京都ってポジショニングだけど、ベネチアの後に行くと、さすがに田舎に来た感が強いんだよね。
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